2024年11月11日月曜日

FF14パッチ7.0黄金の遺産(レガシー)プレイ感想その3

 


スフェーン好きの方は読まないでください

 

はじめに

  FF14パッチ7.0黄金のレガシー。実装直後最初の一ヶ月はこれまで通り夢中で楽しんできたが、メインストーリークリアから月日が経ち、ほかの人の感想も目にするようになって心に思うことが変わってきたのでアウトプットしたい。

 賛否両論はあらゆる作品の常だが、以降は「7.0のメインストーリーの評価は正直残念なものだった」という立場で語りたい。

原因はストーリーではなくキャラクター

 7.0のメインストーリーのどこが残念だったのか、なぜ残念だったのか。コチラの記事でも述べたが、やはり様々な点において描写不足であるためにストーリーの流れやキャラクターの言動、関係がちぐはぐになってしまった箇所が大いにあったこと。それが最大の「残念ポイント」だ。

 ちまたでもそのような感想を見かけた。「描写不足でストーリーが、特に後半が評価できない」と。筆者もそう思う。思うが、しかし7.0の「残念ポイント」の真の原因は、実はストーリー(脚本)ではないと思う。いや、ストーリーにも残念ポイントの要因はあるのだが、もっと根本的に、そのストーリーで動く「キャラクター」こそが、7.0に多くのプラス評価を与えられない原因だと思う。

スフェーンのキャラ設定が最悪

 最初に宣言しておく。筆者はスフェーンが大嫌いだ。登場して15秒、その声(話し方&演出)を聞いただけで「コイツ嫌い」と感じた。そしてそれはメインストーリー最後まで、かつメインストーリーを終えて数ヶ月経った今も変わらない。視界に入るのも鬱陶しいくらいに嫌いだ。ということで、スフェーン好きの方は(この時点で相当だが)、以下ひたすらにスフェーンをこき下ろす(下品ですがコイツ呼びします)ので続きを読むのは諦めてほしい。(反論、文句、苦情などは受け付けません)

 メインストーリーを終えて零式も終えて、いくつか人様の感想も読んでみて、あらためて自分なりに7.0を評価しようといろいろと考えた。「面白くなかった」というマイナス評価を自分の中で確定させる前に、「どういった点がよろしくなかったのだろうか」と考えるようにした。

 そこで7.0に登場した登場人物たちの過去や行動、そこから読み取れる心情について考えてみたのだが、アレクサンドリア側の理解を深めるために「スフェーン」について考え始めた時に、筆者はあることに気付いてしまった。「コイツを一人の人間として考えるのは無理じゃないか?」と。

※「一人の人間として考える」というのは、「FF14内で生まれ落ち、育ち、様々な経験を通して感情を育み、一個体としての自己同一性を保持しているキャラクターであることを前提に、その言動や思想について考える」ということ。

 7.0におけるスフェーンとはどういうキャラクターだったか。彼女は亡くなったアレクサンドリアの王女様(以下「王女スフェーン」と呼ぶ)から抽出された記憶から再現された存在(以下「再現スフェーン」と呼ぶ)である。

 リアル世界でもそうだが、ある人物Aが本当に人物Aで、昨日と今日で別の人物に変容してしまっていないこと、今日も明日も人物Aは人物Aであること。そう自己認識し、また同様に他人に認めてもらうには「自己同一性(アイデンティティ)」が必要だ。自己同一性さえ保たれていれば、たとえば手術をして生殖器を取り除いて生物学的に別の性別になろうと、あるいは単純に美容整形をして能面顔がハリウッドセレブ顔になろうとも、「人物Aは人物Aである」と自他共に認識できる。生殖器の有無や顔面のパーツの位置が変わったからといって「自己同一性」が失われたわけではないからだ。
 つまり、自己同一性とは単なる外見ではない。それはもっと概念的な、ふんわりとした言い方をすれば「その人らしさ」であり、たとえばそれは話し方などの仕草、好き嫌いなどの嗜好、あるいは物事を思考する時の癖、そして「記憶」などによって構成されていると言える。

 この手の話で難しいのが、「事故などの衝撃によって記憶喪失になった人間は自己同一性を保てているのか?」である。記憶が失われれば当然、嗜好や思考の癖は変わるだろう。しかし笑い方や歩き方はそのままかもしれない。外見が一切変わらないならば、親しい者からすれば「記憶をなくしたけど人物Aである」と思え、自己同一性の喪失を肯定する気にはなれないだろう。つまり「記憶の喪失」は、人物Aの自己同一性の喪失を必ずしも決定しない。

 だが筆者はこう思う。人物Aが記憶を無くした時点をXとして、X以降死ぬまで人物Aが記憶を取り戻すことなく生き抜いたとしたら。その時は、X以降の人物Aはかつての人物Aとは異なる自己同一性を持った、すなわち人物A’として考えてよいのではないかと。

「再現スフェーン」は、「王女スフェーン」の記憶から再現された存在だ。肉体は失ったが記憶はそっくりそのまま持っており、一見すると自己同一性を保持しているように思える。だが、筆者としては上記記憶喪失の例の「人物A’」になったように思えるのだ。少しややこしくなるかもしれないが、どういうことなのか本棚で表現してみたい。

 生身の人間として生きていた頃の王女スフェーンは、本棚(≒脳みそ、心、精神など)に本(≒経験、記憶、感情など)をしまっていく。遊んだ記憶、悩んだ記憶、悲しかった記憶……様々な本(記憶)で本棚(脳みそ)は一杯だ。それらの本をしまう作業をしている人物こそ、彼女自身の自己同一性(アイデンティティ)そのものと言ってよいだろう。
 ところが、王女スフェーンは死んでしまった。本棚(≒王女スフェーンの生身の脳≒身体)は無くなり、本をしまっていた人物(≒アイデンティティ)も居なくなる。ところが、エレクトロ―プの超技術は器を無くした本(記憶)をどうにか集め、その本たちで人の形を成した。それが再現スフェーンだ。

 さて、再現スフェーンは果たして王女スフェーンと同じ存在、つまり自己同一性を保持した存在と言えるだろうか。筆者は決して肯定できない。なぜならこの表現の場合、王女スフェーンが持っていた自己同一性とは「本棚(≒肉体)」と、そして何よりも「本(記憶)を本棚にしまっていた人物」であり、本(記憶)そのものではないからだ。

 人物Aがせっせと集めて本を収納していた本棚A。人物Aが死んで本棚Aも壊れて本(記憶)が散乱したわけだが、まったく別の人物Bが真新しい本棚Bにその本を収納し、「さあ、本棚Aが蘇生できたよ=人物Aもこれで蘇生されたね」と主張したとして納得感が得られるだろうか。百歩譲って壊れた本棚A(≒王女スフェーンの生身の肉体)さえも修復し、その修復された本棚Aに本たち(記憶たち)を戻して「蘇生できた」と主張するならまだわかる。わかるというのは、「肉体も記憶も死ぬ前と同じならまあ……自己同一性は保たれていると考えていいかな」ということである。
 再現スフェーンは王女スフェーンと同じ「自己同一性」を有してはいない、まったく別の存在であると考えるべきだ。筆者はこう思う。

 ところで、「一度死んで蘇ったキャラ」としては紅蓮のゼノスがいるが、彼の自己同一性は保たれていると筆者は思う。細かいことは忘れてしまったが、彼の場合死んだあとに「記憶だけ」が抽出されたわけではなく、魂(=彼自身のエーテル?)はそのままで、なおかつ完全復活後の肉体も確か彼自身のものだったからだ。蘇生過程にやや無理があるとは思うのだが、しかし再現スフェーンに比べたら、蘇生前後でゼノスの自己同一性は保たれていると思う。

 さて、なぜスフェーンの自己同一性をこんなにも字数をかけて否定するのかというと、「王女スフェーンと自己同一性の保たれていない、記憶から再現された存在」にすぎない再現スフェーンが、果たして「キャラクターとして考察をするに値するのか」……ようは値しない=コイツを人間として考えるのは無理がある、と主張したかったからだ。

 7.0の後半のストーリーを考えるためにはアレクサンドリア側、つまりスフェーンやゾラージャの過去、人間性、性格、希望、それらに基づく実際にとった行動などについて、「なぜ?」と考える必要がある。
 ところがどっこい、「再現スフェーン」は「王女スフェーン」と同一の人間ではないので、どんなに王女スフェーンが「アレクサンドリアを救いたかった」と願い、そうした「記憶」があったとしても、それが「再現スフェーン」の行動原理につながるのはなんだか不自然に思えてならないのである。

 再現スフェーンは確かに王女スフェーンの記憶を持っている。だが、それは単なる記憶だ。本棚の表現に例えるならば、大量の本を手にしているだけである。王女スフェーンと自己同一性を共有していない再現スフェーンは、その本を集める過程で刻まれた生々しい経緯を経験しているわけでも、そこに付随する感情を抱いたことがあるわけでもない。
 筆者からしてみれば再現スフェーンは、肉体のつながりがあるわけでもなんでもない赤の他人(≒王女スフェーン)の蔵書を大事に胸に抱えて「私がアレクサンドリアの皆の笑顔を守るんだ!」と叫んでいる何か得体のしれない気味の悪いキャラクターに思えるのである。

 そう、気味が悪い。王女スフェーンと同一の肉体を持っているわけでもなく、同一の魂(エーテル)を持っているわけでもなく、ただただ「王女スフェーンの記憶から再現された(≒王女スフェーンの記憶を持っている)」というだけの再現スフェーンは実に気色悪いキャラクターだ。中途半端と言ってもいい。そんな経緯で存在しているキャラクターの「アレクサンドリアへの思い」だとか、「どんな価値観で何に重きを置いて、どういう理由であの行動をとったのか」だなんて、深く考察する必要があるだろうか? というか、できるだろうか?

 ゲーム内では喜怒哀楽などの感情が表現されていたが、再現スフェーンは「記憶から再現されただけの存在」だ。王女スフェーンと自己同一性を持たない、肉体もない、生身のまっとうな「人間」でない存在で、そしてキャラクターとして俯瞰して見ると人間として考えることが不自然に思えるような存在だ。再現スフェーンをヒカセンたちと同じ「生身の人間」とカウントすることに激しい違和感を覚える。そんなキャラクターがこれまでどうしたとか、今後どうしたいとか、そしてどうするとか、そのことを深く考える必要が本当にあるのだろうか?

「記憶から再現された存在」を永久人と呼ぶのでカフキワもクルルの両親も、「生身の人間」側のキャラクターとして扱うのはスフェーンと同じように違和感はある。だがスフェーンの場合は永久人になってからの期間が長く、カフキワやクルルの両親に比べると「生前の存在」、すなわち王女スフェーンとの時間的距離が遠く、自己同一性が保持されていないことへの違和感と気味の悪さは比べようがない。スフェーンは「人物A(王女スフェーン)」としての人生が終わり、「人物A’(再現スフェーン)」になってからの期間が圧倒的に長いのだ。

 スフェーンというキャラクターに対する筆者の総評は、「そもそもまともな人間にカウントできないから言動を深く考察するに値しない」というものだ。7.1以降もストーリーは動くが、「再現スフェーン」の言動にについて一切の意義も意味も、思想も目的も考える価値はないと筆者は思う。

ほかのキャラクターも設定不足

 徹底的にスフェーンというキャラクターをこき下ろしたわけだが、彼女のように、そもそもキャラクター設定が悪いことが、7.0のメインストーリーの残念ポイントを生み出していると思う。

 たとえばウクラマト。「皆の笑顔を守るんだ、と理想をかかげるわりには、継承の儀で旅するまで自国の〝皆〟の暮らしや文化を知らなかったんかい!」というツッコミの感想を見かけたが、本当にそのとおりだと思う。そしてこれはストーリーに原因があるのではなく、ウクラマトというキャラクター設定が悪い。つまり、彼女のこれまでの人生をきちんと設定していないことが原因のように思われる。

 筆者はただのいちプレイヤーで素人なので、ゲームストーリーにおけるキャラクター設定の考え方のセオリーなど知らない。けれども様々なアニメや漫画、ゲームに触れてきてなんとなく思うことは、どういうキャラクターにするか考える際にそのキャラクターの生い立ちや幼少期の頃などの過去は当然のように考えるのではないか、とは思う。

 RPGは何かしらの目的を持って冒険ないし旅をし、時に強敵を打ち倒して前に進み、その目的を果たすゲームだと思う。つまりキャラクターは何かしらの目的を必ず持つものだが、「なぜその目的を持つに至ったか?」は設定の段階で考えるのが至極当然のように思う。するとそれに連なって、「このキャラクターはどんな環境でどんな風に育ってきて、そしてその目的を持つに至ったのか?」と、当然のように過去を深堀りしていくのではないだろうか。

 ウクラマトに限らずゾラージャもコーナも、そうした幼少期の頃などの設定を掘り下げて詳しく練っていないように思う。だから言動や目的、それぞれの関係性がちぐはぐに見えるのだ。それぞれの過去はきちんと設定されておらず、非情に曖昧でふんわりしている。だから現在に至るまでの経緯や思想が不明で、メインストーリーにおいて言動に無理があったり矛盾していたり、整合性がとれない仕上がりになったのだ。

 スフェーンが最も「キャラクターとして設定が破綻ないし失敗している」と思うが、ほかのキャラクターも設定段階で破綻、ないしは失敗している。ようは、一人の人間(キャラクター)として作り込む際に、クリエイター側が最低限練るべきラインにキャラ設定が至っていないのである。そんな失敗設定のキャラクターで良いストーリーになる方が難しい。7.0の出来に関して一言運営にモノを申せるならば、「キャラクター設定から見直せ」と筆者は強く言いたい。

 

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